日本知名企業(yè)家談經(jīng)營
本田社長福井威夫:不挑戰(zhàn)就沒有新技術(shù)
一般來說,公司越大,管理就越嚴格。時間和預(yù)算管理逐步嚴格化,個人逐漸失去自由,凡事須一一向上司彙報。但這樣做是不行的,會使員工什麼事情都做不成。
本田的研究所就不這樣做。這決不是說公司可以很隨便,而是個人可以自己的判斷做出許多決定。我過去行事就有相當(dāng)?shù)淖杂啥?。雖然不是完全自行決定,但是在做出“這對公司很重要”的判斷後,相關(guān)主題進入研究開發(fā)的幾率很大。這時使用的當(dāng)然是公司的資金。向公司彙報則是在結(jié)果出來之後。也就是在花了錢之後,向公司彙報“獲得了這樣的結(jié)果”。本田允許這樣做。反過來說若非如此,就不會誕生新技術(shù)。
99%失敗也在所不辭
愚蠢的失敗當(dāng)然不允許出現(xiàn),但研究開發(fā)不可能全部成功。大家都明白,傑出的技術(shù)不會輕易誕生。失敗理所當(dāng)然。公司只要求在99%的失敗中能有1%的成功即可。
本田甚至還擁有對“典型失敗事例”進行高度評價的制度。不光是成功事例,失敗項目也要善始善終。在本田的幹部1年1度前往研究所時,這些失敗事例會被展示出來。伴隨著“進行了這麼有趣的挑戰(zhàn),但失敗慘重”的結(jié)論,既不會有嘲笑,也不會有指責(zé)。大家在紛紛讚許“有意思”的同時,也會給出“下次加油”的評價。如果是一般的公司,這些失敗估計會被掩藏起來。
即便是失敗項目,也是技術(shù)人員數(shù)年心血的結(jié)晶。因此,不光是結(jié)果,對於過程也應(yīng)給予高度重視。因為本田不是愛倣照別人的公司。如果不進行可能失敗的挑戰(zhàn),就無法獲得新技術(shù)。
但是,研發(fā)和汽車、摩托車等商品開發(fā)有明確的區(qū)別。為了不給客戶造成麻煩,所開發(fā)的技術(shù)必須在徹底確認的基礎(chǔ)上,再應(yīng)用於汽車。與開發(fā)新技術(shù)不同,應(yīng)用於商品的技術(shù)容不得失敗。必須100%成功。本田之所以得到了發(fā)展,原因就在於對這兩方面的兼顧。
——如果提出的技術(shù)開發(fā)項目與其他公司類似怎麼辦?
首先本田沒有這種人。有時我甚至想勸他們不妨模倣一下,“別太勉強了”(笑)。本田擁有鄙視模倣的企業(yè)文化。本田宗一郎曾經(jīng)最討厭模倣。因此本田徹底貫徹。
——有無大家都想開發(fā)F1賽車的事情?
很多人進公司時都有這種模糊的想法。但是,實際參與了的人卻說:“再也不想幹了。沒有比這更艱苦的了”(笑)。不光是F1賽車,我們挑戰(zhàn)的技術(shù)還有很多。比如氣囊的開發(fā)用了18年時間。有的技術(shù)人員一直從事這一開發(fā)。在開發(fā)之初,這項技術(shù)曾被認為是異想天開。研究人員總是在想:“撞擊時沒有打開怎麼辦”、“相反的,正常行駛時打開了怎麼辦”,懷疑控制精度能否達到那種水準?,F(xiàn)在已經(jīng)是理所當(dāng)然的技術(shù),在當(dāng)時卻是無稽之談。
此類長期開發(fā)項目為數(shù)眾多。20年、30年需要一名工程師付出一生。也就是說,一名優(yōu)秀的學(xué)生在進入公司後,就要一直專注于一個研發(fā)題目。最近,本田開發(fā)出了用於摩托車的新型自動變速箱“油壓機械式無段變速箱HFT(Human-Friendly Transmission)”,這項自主技術(shù)基本上就是由一人完成的。這在技術(shù)上非常困難??芍^是得到了上天的惠顧。
燃料電池車還處於發(fā)展途中,距離普及還相差很遠,但是,回顧一下10年前的狀況,從當(dāng)時的水準終於邁出了朝向終點的步履,這還是很有成就感的。此外還有太陽能電池和生質(zhì)酒精等。
不光重視結(jié)果,還要重視過程
前面談到了失敗項目也會公開的話題,本田在對於技術(shù)人員的待遇和人事評價方面,也是以積極的態(tài)度對待失敗的。當(dāng)然,愚蠢的失敗不屬於這一范疇。但是,在對新技術(shù)進行挑戰(zhàn)中,應(yīng)該有“雖然不知道能否成功,但是希望嘗試”的態(tài)度。本田重視的也就是這一過程。結(jié)果很重要,但結(jié)果並不是全部。關(guān)鍵還要看過程。人必然會有失敗,怎樣吸取失敗的教訓(xùn)邁出新的一步才是關(guān)鍵。為此,必須認真評價開發(fā)的過程。
——客觀評價過程非常困難。
不,並不困難。經(jīng)常去一線就可以明白這一點。只是仔細觀察技術(shù)人員每天是用什麼態(tài)度、什麼方式工作就足夠了。只看結(jié)果進行判斷其實更困難。
福井威夫:1944年出生。1969年4月進入本田。先後擔(dān)任本田賽車公司社長、美國本田製造公司社長、本田技術(shù)研究所董事社長後,于2003年就任本田董事社長。
挑戦しないと新技術(shù)なんてできない
普通なら會社が大きくなるにつれて管理が厳しくなる。だんだん時間や予算の管理が厳しくなって個人の自由がなくなり,いちいち上司の了解を取らなければならない。しかし,これではダメ。社員が何もできなくなってしまう。
ホンダの研究所はそうじゃない。決していいかげんなわけではありませんが,かなりの部分が個人の裁量に任されています。かつて私も相當(dāng)に自由にやらせてもらった。すべてが勝手に決められるわけではないものの,「會社にとってこれが大切なんだ」と自分で判斷すれば,かなりの確率でそのテーマの研究開発ができるのです。そのときはもちろん,會社のお金を使わせてもらう。報告するのは成果が出た後。お金を使った後に,「こういうものができました」とやるわけです。それが許される會社なんです,ホンダは。むしろ,そうでなければ新しい技術(shù)なんて生まれてきません。
バカな失敗はもちろん許されませんが,研究開発の全部が成功するわけでもありません。すごい技術(shù)なんてそうは簡単に生まれないことは,みんなが分かっている。失敗して當(dāng)たり前。99%の失敗の中から1%がうまくいけばいい,という感じでやってもらっています。
むしろ,ホンダでは「典型的に失敗した事例」をみんなで評価する制度すらあるのです。成功事例だけじゃなく,失敗したプロジェクトもきちんと完結(jié)させる。そして1年に1回,ホンダの役員が研究所に出向くイベントに,そうした失敗事例も展示します?!袱长螭拭姘驻い长趣颂魬椁筏郡堡?,大失敗でした」と。失敗を笑うわけでも責(zé)めるわけでもない?!该姘驻い亭取工撙螭胜钎铳ぅ铳ぱ预い胜椋复韦项B張れよ」と評価するのです。普通の會社なら,こういった失敗を隠しちゃうでしょう。
失敗に終わったプロジェクトだって,技術(shù)者が何年もかけて一生懸命取り組んできたもの。そのため,結(jié)果だけでなく,そのプロセスを非常に重視しようと考えています。ホンダは物マネをする會社ではないですから。失敗するぐらいのチャレンジをしていかないと,新しい技術(shù)は手にできないのです。
ただし,研究開発と,クルマや二輪車などの商品開発には明確な一線があります。顧客に迷惑はかけられないから,開発した技術(shù)は徹底的に確認した上でクルマに応用する。新しい技術(shù)の開発とは違って,商品に搭載する技術(shù)での失敗は許されない。100%成功しないとダメです。この二つをうまく両立させていることが,これまでホンダが成長してきた理由でしょう。
――他社と似たような技術(shù)の開発プロジェクトの提案があったらどうするのですか。
提案するやつはまずいない。たまには「マネてくれ」と言いたいくらいです?!笩o理するな」ってね(笑)。ホンダには物マネを毛嫌いする企業(yè)風(fēng)土があります。本田宗一郎もマネをするのが大嫌いでした。だから徹底的にやったわけです。
――みんながF1マシンをやりたいってことはないのですか。
漠然とやりたいと思って入社して來る人は多いでしょう。だけど,実際にやった人間は「もう二度とやりたくない。あんなに辛いものはない」となります(笑)。F1マシンに限らず,いろいろな技術(shù)への挑戦がありますよね。例えば,エアバッグの開発には18年かかりました。ずっとこれを擔(dān)當(dāng)してきた技術(shù)者がいます。開発當(dāng)初は,そんなバカなっていうほど常識外れの技術(shù)でした?!袱猡筏证膜盲郡趣碎_かなかったらどうする?」「逆に,走っているときに開いたらどうする?」。そんなことを考えてしまう。それほど精度の高いコントロールができるのか,ということです。今では當(dāng)たり前になりましたけれど,當(dāng)時はとても無理でした。
こうした長期にわたる開発プロジェクトはたくさんあります。20年や30年というと,會社に入ってきて,一人のエンジニアが一生をかけてやるわけでしょう? 一人の優(yōu)秀な學(xué)生が入社して,そのテーマだけをやり続けるということです。最近では,二輪車向けに獨自技術(shù)の新型自動変速機「油圧機械式無段変速機HFT(Human-Friendly Transmission)」を開発しましたが,あれなんか基本的には一人でやったものです。技術(shù)的には大変難しい。神がかっていますよ。
燃料電池車は道半ばで普及にはまだまだですが,10年前から考えると,あそこまで最終ゴールに向かってステップアップできたというのは達成感があると思います。このほか今では太陽電池あり,バイオエタノールありですからね。
失敗したプロジェクトにも日を當(dāng)てるという話をしましたが,これは技術(shù)者の処遇や人事評価などに関しても,失敗を前向きにとらえるということです。もちろん,バカな失敗は分かりますから問題外。しかし,新しい技術(shù)への挑戦では「成功するか分からないがやってみよう」というのがありますよね。そのプロセスを重視するんです。結(jié)果も重要ですが,結(jié)果だけじゃない。プロセスです。人間は必ず失敗するのであって,その失敗をどうやって次に生かすかということがカギになります。それにはプロセスをきちっと評価しなければいけない。
――プロセスを客観的に評価するということはかなり難しいのでは。
いや,難しくはないです。常に現(xiàn)場に行って見ていれば分かります。日々どういう態(tài)度でどのように仕事をしているかに,きちんと目を配っていればね。結(jié)果だけを見て判斷する方が,よほど難しいんじゃないですか。
佳能電子社長酒卷久:失敗是寶庫,違反規(guī)則是大問題
2008/04/24
我們最投入的是編寫《失敗與成功事例集》和以其為基礎(chǔ)召開的學(xué)習(xí)會。所有失敗都必須寫入這本事例集中。只要肯寫,就不做負面評價。如果事例好,還要給予表揚。製造一線最不能容忍的就是隱瞞。不做負面評價,也就沒有必要隱瞞了。
在《失敗與成功事例集》中,最重要的是明確出錯誤或失敗的原因、為什麼直屬上司沒能提前發(fā)現(xiàn)。只要清楚了這兩點,就能防止再次出現(xiàn)錯誤和失敗。相反,在失敗事例報告中,如果這兩點不充分,就要重寫。我會親自要求重寫。
各部門要以事例集為基礎(chǔ),大約1周召開1次學(xué)習(xí)會。一個學(xué)習(xí)會有10~20人參加。開發(fā)部門的學(xué)習(xí)會是以工廠事例為中心,針對其他部門為何出現(xiàn)了失敗、為什麼沒能避免失敗進行討論。
提到失敗事例學(xué)習(xí)會,總有一種挑別人毛病的印象,但在我們這裡,氣氛極其輕鬆。因為不是工作,所以允許喝飲料、吃蛋糕。經(jīng)費由公司承擔(dān)。會議想怎麼樣開都可以。如果是業(yè)務(wù)會議,自由討論就很難做到了。
——自己報告自己的失敗是不是很困難的一件事?
在《失敗與成功事例集》步入軌道之前,只要得到與員工交流的機會,我就會說:“出現(xiàn)失敗後請寫下來”。出現(xiàn)品質(zhì)問題時,我會說:“這會是很好的失敗事例,寫一下吧。寫的時候要查明原因”。這樣的話,員工當(dāng)然會去現(xiàn)場進行調(diào)查。怎樣創(chuàng)造氣氛非常重要。把失敗寫進事例集是所有錯誤的免罪金牌。如果隱瞞不寫,反而要受到懲罰。失敗意味著之前必有挑戰(zhàn),是人力無法抗拒時才會失敗。不能用“學(xué)習(xí)不充分,準備不充分”來指責(zé)。也就是說,我們要在公司內(nèi)部創(chuàng)造出“不在乎失敗”的文化。
失敗也能孕育出新產(chǎn)品
我反覆說過:“目的是找出原因”,“有的失敗可以褒獎,但所有失敗都不應(yīng)指責(zé)”。特別是“不做負面評價”,這不能光靠課長和部長說。讓員工接受這一想法是經(jīng)營者的責(zé)任。佳能向來具有不從負面看待失敗的文化。歷代佳能社長中沒有因失敗而當(dāng)不上社長的,前社長山路敬三甚至為失敗感到自豪:“我曾經(jīng)失敗過。而後克服了失敗。而且還當(dāng)上了社長”。
對於失敗,只要改變看法,就能夠使其成為實現(xiàn)新的進步的寶庫。不分析失敗等於丟掉寶庫。進步就會停止。實際上,明確失敗的原因還能與新產(chǎn)品的開發(fā)掛鉤。但是,失敗與違反規(guī)則則是不同的。對此存在模糊認識的人為數(shù)不少。失敗是指挑戰(zhàn)的結(jié)果。所以允許失敗。甚至可以表揚??朔耸【涂梢员頁P,可以晉陞。但違反規(guī)則要予以嚴懲。因為規(guī)則來源於之前的經(jīng)驗,不遵守就會出大問題。如果在工廠中不守規(guī)則,難免會受重傷、引發(fā)重大事故。因此,只要有規(guī)則就必須遵守。
不過,日本的常識卻是相反的。不久前,我在經(jīng)營者參加的一個演講會上談了“失敗與規(guī)則”的話題。會後有人說:“總算明白了。我們以前都做反了”。“對失敗的人進行斥責(zé),對違反規(guī)則的人反而安撫”。這樣做就徹底搞反了。
從其他角度來看,無法遵守的規(guī)則則必須更改。沒有目的的規(guī)則絕對不能允許。不符合實際情況的必須廢止。
經(jīng)過深思熟慮制定的規(guī)則非常重要,只要遵守這些規(guī)則,公司就不會出現(xiàn)重大損失。經(jīng)常有人說:“大規(guī)則肯定能遵守”,但是連小規(guī)則都遵守不了的人,是無法遵守大規(guī)則的。因此,如果不在剛?cè)牍緯r徹底遵守小規(guī)則,當(dāng)他們成為經(jīng)營者後,就會違反規(guī)則,引發(fā)事故。這在最近屢見不鮮。日本的製造業(yè)如果不再一次認真從教育抓起的話,面臨的情況會相當(dāng)危險。品質(zhì)不是機械創(chuàng)造的,是人創(chuàng)造的。說得更大一點是由人的性格所決定的。
簡歷
酒卷 久:1940年生於栃木縣。1967年進入佳能公司後,分配至研究開發(fā)部門。從事VTR基礎(chǔ)研究和影印機/傳真機/文字處理機/個人電腦的開發(fā),申請了多項基本專利。1989年任董事兼系統(tǒng)業(yè)務(wù)部部長。1996年3月任常務(wù)董事兼生產(chǎn)本部部長,導(dǎo)入和確立了單元生產(chǎn)方式。1999年3月起擔(dān)任現(xiàn)職。著有《佳能單元式生產(chǎn)方式》(日本能率協(xié)會管理中心)等。
失敗は寶の山,しかしルール違反は大問題 それは最近の経営者を見ると分かります
我々が最も力を入れているのは「失敗?成功事例集」の作成と,それに基づく勉強會です。この事例集には,どんな失敗でも必ず書き込む。書いてくれさえすれば,マイナス評価はしません。逆に,良い事例を書いてくれた場合は評価するというのがルールです。製造現(xiàn)場が一番やってはいけないことは隠し事です。マイナス評価をしないことで,隠す必要がなくなります。
失敗?成功事例集の中で特に重要なことは,なぜミスや失敗が起きたかという原因を解明することと,なぜそれを直屬の上司が事前に見抜けなかったのかを明らかにすることです。この二つをしっかりやれば,ミスや失敗の再発を防止できます。逆に失敗事例の報告で,この二つが不十分だと書き直してもらいます。私自身が書き直しを指示します。
そして,この事例集を基に1週間に1回程度,部署ごとに勉強會を開きます。一つの勉強會には10~20人が參加します。開発部門の勉強會は工場の事例が中心というように,他部門の失敗がなぜ起きたか,またなぜ防げなかったかを話し合います。
失敗事例の勉強會というと,なんだか他人のアラ探しみたいな印象があるでしょうが,我々の場合は至極リラックスした雰囲気のものです。仕事ではないので飲み物やケーキなどの飲食は自由。経費は會社が負擔(dān)します。あとは好きなようにやってくださいということですね。業(yè)務(wù)としての會議だと,自由な議論がなかなかできません。
――自分の失敗を自発的に申告するのはなかなか難しいのでは。
失敗?成功事例集が軌道に乗るまでは,社員と話す機會があると必ず「失敗の事例があったら書きなさい」と語り掛けました。品質(zhì)不良が出ると,「これは良い失敗事例になるから書いて。そのときには原因をしっかり究明してくださいね」と言いました。もちろん現(xiàn)場に出掛けていきました。雰囲気をどうやってつくるかが重要です。失敗を事例集に書いてさえくれれば,どんなミスでも許すという免罪符です。書かずに隠した場合には,逆に厳罰です。失敗というのは,必ずその前に挑戦があるわけだから不可抗力なのです。それを「勉強不足だ,準備不足だ」なんて責(zé)めてもしょうがない。それは「構(gòu)いません」という風(fēng)土を會社の中につくることです。
私は,「目的は原因追究である」ということ,「失敗を褒めることはあっても,責(zé)めることはない」ということを,何回も繰り返し話しました。特に「マイナス評価をしない」ということは,課長や部長が言ってもダメですね。これを納得してもらうのは経営者の責(zé)任だと思います。もともとキヤノンには,失敗をマイナスに見ない風(fēng)土があります。歴代のキヤノンの社長で失敗をして社長になれなかった人はいないですし,山路敬三元社長は「私はこんな失敗をしました。そしてこう乗り越えました。それで社長になりました」と,失敗を自慢するくらいの人でした。
失敗というのは,見方を変えると次の進歩のために必要な寶の山です。失敗を分析しないということは,寶の山を捨ててしまうことに等しい。進歩が止まってしまいますから。実際に,失敗の原因解明が新製品の開発につながったケースもあります。しかし,失敗とルール違反というのは別次元です。ここを勘違いしている人が意外に多い。失敗というのは挑戦した結(jié)果です。だから失敗は許していい。さらに言うと,褒めてもいいわけです。それを解決して乗り越えたら表彰もので,昇進に値します。しかし,ルール違反というのは厳罰です。なぜかというと,ルールはこれまでの経験などから,それを守らないと大きな問題が起こるということを明確にしたものだからです。工場でルールを守らないと,大けがをしたり,ものすごい事故を起こしたりしてしまいます。ルールがある以上,守らなければいけません。
ところが,日本の常識は逆かもしれません。先日,経営者が集まった講演會で「失敗とルール」の話をしました。すると「やっと分かりました。今まで逆のことをやっていました」と言う方がいました?!甘·颏筏盲?,ルール違反は『まあ,いいじゃないか』」だったというわけです。逆ですよ,逆。
別の角度から見ると,守ることのできないルールは変えなければいけない,ということになります。目的のないルールというのは絶対ダメ。実態(tài)に合わなくなったらすぐやめることです。
考え抜いて作ったルールは,これを守っていれば會社に大きな損害はない,と言えるくらい重要なものです。よく,「大きいルールだったら守りますよ」という人がいるけれども,小さなルールが守れない人に大きなルールは守れないでしょう。ですから,小さなルールを新入社員の時から徹底的に教え込んでおかないと,経営者になってからルール違反をして,不祥事を起こしたりするわけですよ。最近よく見る光景ではないでしょうか。日本の製造業(yè)は,もう一度きちんと教育から始めてやり直さないと,かなり危ない。品質(zhì)は,機械がつくるのではなく人間がつくるものです。大本は人間性で決まるのです。
プロフィール
酒巻 久(さかまき?ひさし) 1940年栃木県生まれ。1967年にキヤノン入社後,研究開発部門に配屬。VTRの基礎(chǔ)研究や複寫機/ファクス/ワープロ/パソコンなどの開発に従事し,多くの基本特許を出願した。1989年に取締役システム事業(yè)部長。1996年3月には常務(wù)取締役生産本部長になって,セル生産を?qū)毪范ㄖ丹护胍鄹瞍驌?dān)う。1999年3月から現(xiàn)職。著書に『キヤノン方式のセル生産で意識が変わる會社が変わる』(日本能率協(xié)會マネジメントセンター)など。
JFE鋼鐵影近博:依靠團隊力量,實現(xiàn)“鋼鐵反擊
鋼鐵業(yè)在飛速實現(xiàn)全球化,如今我們的對手已遍佈全球。對手的陣容令人極其羨慕,包括全球規(guī)模的大公司和新興勢力的中韓兩國。不僅優(yōu)秀人才雲(yún)集,資金也雄厚。利用這些資金,對手們配備了高級研究設(shè)備並建成了試驗工廠。
這就需要思考一個問題:我們的優(yōu)勢何在?我負責(zé)JFE鋼鐵的研究開發(fā)部門,當(dāng)然會認真考慮這個問題。我得出的結(jié)論是:團隊力量。整個團隊的應(yīng)對能力才是我們的優(yōu)勢。
比較海外企業(yè)和日本企業(yè),研究人員和技術(shù)人員的行動模式不同。南韓和美國基本是個人主義,當(dāng)客戶告知鋼鐵廠商的業(yè)務(wù)負責(zé)人“在這裡碰到了問題”之後,資訊大多會停留在業(yè)務(wù)負責(zé)人那裏。提交出現(xiàn)問題的樣品時,也只有業(yè)務(wù)負責(zé)人一人檢查。存在的問題即便是同一家公司的同事之間也沒有交流。而在日本,資訊在組織中共用,大家一起思考“是怎麼回事,應(yīng)該怎麼做”。
對於日本企業(yè)的這種做法,有批評指出過於重視組織,泯滅了個人的才能,但考慮到從研發(fā)到製造的整個流程,b不得不說鋼鐵業(yè)是組織能力起重大作用的業(yè)種。
也就是說,從熔化鐵礦石到最終完成鋼鐵製品,這是一個大規(guī)模且長時間的過程,必須予以精密控制。哪怕是部分製程出現(xiàn)了一點錯誤,產(chǎn)品品質(zhì)也無法保證。並且,把新產(chǎn)品加入生產(chǎn)工藝之中,需要研究開發(fā)部門和生產(chǎn)部門密切合作。依靠個人能力是無法實現(xiàn)的。一定要以組織的形式對付問題。必須首先確定需要調(diào)整的條件,確定應(yīng)該在多大的範(fàn)圍內(nèi)設(shè)定條件。而且還要在較長的生產(chǎn)過程中事無巨細地實施。這樣做需要經(jīng)驗,所以海外企業(yè)想用技術(shù)追趕則比想像的要困難。我要是說10年也趕不上,他們估計會不服氣(笑)。
咬緊牙關(guān)維持研發(fā)
——10年前出現(xiàn)了鋼鐵冷門的說法,鋼鐵被看作是夕陽產(chǎn)業(yè)。
日本的粗鋼產(chǎn)量在2003年~2006年之間,連續(xù)4年超過1億1000萬噸,但很快又跌破了1億噸,有人說將掉到8000萬噸。甚至有人說:“鋼鐵已經(jīng)沒有研究課題了”。在這裡,我想向前輩表達敬意,他們在這種時期也沒有動搖,仍然潛心於鋼鐵的研究。
我認為這是日本鋼鐵廠商的特點。其他公司也有在困難時期仍堅持進行鋼鐵研發(fā)的。另一方面,也有很多人受到了泡沫期、新材料熱和多角經(jīng)營的影響。JFE鋼鐵的研究員總數(shù)減少了很多。但減員是發(fā)生在鋼鐵研究以外的領(lǐng)域。即便是在鋼鐵冷門時代,我們也延續(xù)了鋼鐵的研究開發(fā),維持了研究人員數(shù)量。實際上,現(xiàn)在已經(jīng)結(jié)出碩果的高張力鋼板、無鉻酸鹽鋼板等材料,以及大多數(shù)工藝技術(shù)都是當(dāng)時勤奮開展基礎(chǔ)研究的結(jié)果。當(dāng)時的基礎(chǔ)研究到今天結(jié)出了碩果。
——工藝的開發(fā)成果有哪些?
例如,名為“Super-OLAC”的鋼板快速冷卻技術(shù)。這是通過向連續(xù)運送的高溫厚板和薄板噴水,進行冷卻的技術(shù),其噴水方式進行了革新。話聽起來雖然很簡單,但是,隨著這項技術(shù)的確立,此前無法實現(xiàn)的快速冷卻,以及在控溫的同時進行冷卻的做法成為了現(xiàn)實。並且還能製造出形狀非常好的鋼板。也就是形狀可以非常穩(wěn)定,單純噴水冷卻的話,鋼板會像海帶芽那樣收縮。這項技術(shù)的基礎(chǔ)是在鋼鐵冷門時代開發(fā)的。研究人員全身心投入冷卻鋼板研究,逐一攻克了“為何不能冷卻?”,“為什麼冷卻後形狀會如此變化?”等問題。為此研究人員做出了長期不懈的努力。
冷卻是鋼鐵的根本技術(shù)。正所謂“趁熱打鐵”。鋼鐵鍛造的基本在於溫度的升高和降低。有全力研究加熱的技術(shù)人員,也有全力研究冷卻的技術(shù)人員。還有研究機械設(shè)備的。鋼鐵技術(shù)就是聚集這些人的力量才進步的。這是一個“勤奮”和“不懈”的世界。
基於這些技術(shù),JFE鋼鐵推出了高級鋼戰(zhàn)略。簡單的說,就是增加只有本公司或是只有日本鋼鐵廠商才能供應(yīng)的鋼材。
高級是個模糊的字眼,總而言之,就是依靠其他國家無法製造或非常難以生產(chǎn)的商品種類的多少來一決勝負。未來的鋼鐵業(yè)有可能分成兩類:大量生產(chǎn)通用鋼材的企業(yè)、以高級鋼材為中心開展業(yè)務(wù)的企業(yè)。製造高級鋼材的企業(yè)在全球為數(shù)不多,但這些公司分別在其擅長的鋼鐵種類上擁有全球一半以上的佔有率。在競爭中起決定作用的是技術(shù),只有擁有技術(shù)的企業(yè)才能生存。我們要通過技術(shù)提升高級鋼材的競爭力,利用這些鋼材,在全球競爭中勝出。
簡歷
影近 博:1950年3月生。1972年3月畢業(yè)于日本東北大學(xué)工學(xué)部應(yīng)用化學(xué)系,同年4月進入日本鋼管公司。1998年任技術(shù)開發(fā)本部技術(shù)企劃部部長。2002年任常務(wù)執(zhí)行董事。日本鋼管與川崎製鋼鐵合併後,于2003年4月就任JFE鋼鐵常務(wù)執(zhí)行董事。現(xiàn)任專務(wù)執(zhí)行董事。
「鉄の反撃」はチームの力のおかげ
2008/04/22 18:36
鉄鋼業(yè)界は,グローバル化が一気に進み,今や世界中がライバルです。世界規(guī)模の大會社や新興勢力である韓國や中國,こうした世界のライバルの陣容を見るとうらやましい限りですよ。優(yōu)秀な人材はそろっているし資金も豊富。その資金をつぎ込んだ素晴らしい研究設(shè)備や試験プラントをそろえています。
そこで考えるわけです。我々の強みは何だろうかと。僕は,JFEスチールで鉄の研究開発部門を擔(dān)當(dāng)していますから,それこそ真剣に考えます。そしてたどり著いた結(jié)論は,チームの力。組織としての対応力こそが我々の強みなのです。
海外勢と日本では,研究者や技術(shù)者の行動パターンが違います。韓國や米國は基本的には個人主義なので,顧客から鉄鋼メーカーの擔(dān)當(dāng)者に「こういうことで困っている」と相談を受けても,情報はその擔(dān)當(dāng)者で止まってしまうことが多い。サンプル品を渡した場合でも,擔(dān)當(dāng)者だけが囲い込んでしまう。同じ社內(nèi)の仲間にも黙っているわけですね。日本の場合は組織の中で情報が共有され,「どうするんだ,どうしようか」とみんなで一緒になって考えます。
組織を重視することに対しては個人の才能をつぶすという批判もありますが,鉄鋼業(yè)は研究開発から生産までのプロセス全體を考えると,組織力が大きくものをいう構(gòu)造になっています。
というのは,鉄鉱石を溶かすところから,最終的に鉄の製品に仕上げるまでには,大規(guī)模で非常に長い工程があり,これを精緻に制御する必要があるからです。一部の工程でわずかな狂いがあっても製品品質(zhì)を保てない。加えて,新たな製品をこの生産プロセスの中に組み込むには,研究開発部門と生産部門で密接な連攜を取る必要があります。これらは個人の力だけでは無理。組織で問題や課題に対応することが不可欠です。まず調(diào)整すべき條件を特定し,どんな範(fàn)囲で條件を設(shè)定したらいいか決めなければならない。しかも,長大なプロセス全體にわたって事細かにやる必要があります。こうしたノウハウが必要なので,海外勢が技術(shù)でキャッチアップするのは想像以上に難しい。10年たっても追い付かれないと言ったら怒られてしまいますが(笑)。
――10年前は,鉄冷えといわれ,鉄鋼は斜陽産業(yè)と見られていました。
日本の粗鋼生産量は2003年から2006年まで,4年連続して1億1000萬tを上回っていますが,一時は1億tを割り,8000萬tにまで落ち込むといわれていました?!袱猡︹煠胜螭蒲芯郡工毳譬`マはないだろう」とも言われました。ここは先輩に敬意を表したいと思うのですが,こうした時期でもブレないで鉄の研究を続けてきたのです。
これは日本の鉄鋼メーカーの特徴だと思います。他社にも,苦しい時期に鉄の研究開発を死守した人たちが必ずいました。その一方で,バブル期や新素材ブーム,多角化に踴った人たちもたくさんいましたが。JFEスチールでも研究員の全體數(shù)は相當(dāng)減っています。しかし,減ったのは鉄以外をやっていた人たちです。鉄冷えの時代でも鉄に関する研究開発を続け,研究員を維持してきました。今,花開いているハイテン(高張力鋼板)やクロメートフリー鋼板といった材料,そしてプロセス技術(shù)の多くは,実はその當(dāng)時に基礎(chǔ)研究をこつこつやってきたものです。そのときの基礎(chǔ)研究が今になって日の目を見ているわけです。
――プロセス技術(shù)にどんな開発例があるのでしょうか。
例えば,「スーパーオーラック(Super-OLAC)」という鋼板の急速冷卻技術(shù)があります。これは,連続して流れている高溫の厚板や薄板に水をかけて冷やす技術(shù)ですが,その水のかけ方を革新しました。言葉で説明すると簡単そうですが,この技術(shù)を確立した結(jié)果,今までできなかった,急速に冷卻したり溫度を制御しながら冷卻したりすることができるようになりました。加えて,非常に形のいい板ができる。単に水をかけて冷卻するとワカメのように縮んでしまうのですが,きちっと形狀を安定させることができるわけです。この技術(shù)の基本は鉄冷えの時代に開発したものです。研究者が板を冷やす研究を一生懸命にやっていて,「なぜ冷えないんだ。どうすればいいんだ」「なんで形狀がこんなにバラつくんだ」といった,さまざまな課題を一つひとつ,つぶしていったのです。長期的なスパンで営々と。
冷卻は鉄鋼の本質(zhì)技術(shù)です?!糕煠蠠幛いΔ沥舜颏啤工趣い铯欷蓼埂¥膜蓼?,溫度を上げたり下げたりというのは鉄の製造の基本なのです。加熱を一生懸命やっている技術(shù)者もいますし,冷卻を一生懸命やっている技術(shù)者もいます。また,機械をやっている人もいる。そういう人たちが集まって鉄鋼技術(shù)が進化していくのです?!袱长膜长摹工取竼?/span>々」と,そんな世界なんです。
こうした技術(shù)に基づいてJFEスチールが掲げているのが高級鋼戦略です。平たく言えば,我々の會社だけ,あるいは日本の鉄鋼メーカーだけしか供給できない鋼材を増やしていく,ということです。
高級というのはあいまいな言葉ですが,要は他國では製造できない,非常に生産しにくい,そういう商品をどれぐらい出せるかが勝負を決めます。將來の鉄鋼業(yè)界を考えると,汎用鋼材を大量生産する企業(yè)と,高級鋼材を中心に事業(yè)展開する企業(yè)に分かれることになる。高級鋼材を造る企業(yè)は世界で數(shù)社ですが,その數(shù)社のそれぞれが,得意な鋼材種で世界シェアの半分以上を押さえるという感じではないでしょうか。その際に決め手になるのは技術(shù)であり,技術(shù)を持った企業(yè)しか生き殘れないと思っています。我々は技術(shù)で競爭力を高めた高級鋼材で,グローバルな競爭を勝ち抜きたいと考えています。
プロフィール
影近 博(かげちか?ひろし) 1950年3月生まれ。1972年3月,東北大學(xué)工學(xué)部応用化學(xué)科を卒業(yè)し,同年4月に日本鋼管に入社。1998年に技術(shù)開発本部技術(shù)企畫部長。2002年に執(zhí)行役員常務(wù)。川崎製鉄との合併後の2003年4月,JFEスチール常務(wù)執(zhí)行役員に就任?,F(xiàn)在は専務(wù)執(zhí)行役員。
理光社長近藤史朗:傳統(tǒng)手法已經(jīng)開發(fā)不出最尖端的產(chǎn)品
2008/04/28
我現(xiàn)在認為,設(shè)計開發(fā)流程的改革是重中之重。最初的設(shè)計開發(fā)部分最為困難,一旦這裡出錯,之後怎樣彌補都無法挽回。因此,最初的設(shè)計開發(fā)部門的責(zé)任非常重。而對設(shè)計開發(fā)流程進行改革就是出於“要創(chuàng)造,而不是製造”的方針。其實還有更過激的說法,要達到“無試製、無評測、無檢查”的境界。
就算製造試製品進行評測,對於如今複雜而且高性能的產(chǎn)品,評測是做不完的。反倒是不做試製品時評測的精度會更高。如果一個產(chǎn)品能夠在與正常狀況完全不同的環(huán)境下使用,那麼一般都會獲得客戶的好評。這就是電腦的好處。就理想狀況而言,希望能夠既不試製,也不對實際產(chǎn)品進行評估。最好能從設(shè)計開發(fā)直接就實現(xiàn)量產(chǎn)。但現(xiàn)實情況是還沒有達到這種水準。
開發(fā)體制也把它從根本上轉(zhuǎn)變成了有組織的體系。說起來挺奇怪,設(shè)計人員如果進行了“體力”勞動,就會自我感覺好像做了很多工作似的。這樣說可能不好理解。打個比方,大多數(shù)公司都有大家一起為了趕上市日期而徹夜加班,或是在項目推進過程中違反公司命令的情況出現(xiàn)。然後,項目最終以成功結(jié)束。這就是使用了體力的感覺。但是,對於影印機而言,依靠過去那種幾個人的項目組徹夜加班完成產(chǎn)品的方式,已經(jīng)開發(fā)不出最新的產(chǎn)品了。
當(dāng)我在一線最前沿從事開發(fā)的時候,也是由幾個人的團隊開發(fā)商品,沒日沒夜的拼命是理所當(dāng)然。我們都覺得新產(chǎn)品開發(fā)就得如此。但是,現(xiàn)在的理光完全不允許這樣。並且明確指出這是一種壞方法。
要想用過去的開發(fā)方式開發(fā)最新的高精度複雜產(chǎn)品,個人有時要承擔(dān)超出承受能力的負荷。最終對個人產(chǎn)生非常惡劣的影響。而且這種情況時有發(fā)生。我的健康也曾因此受到過損害。無論是哪的企業(yè),這種環(huán)境對於走在開發(fā)最前沿的人們大概都是共通的。我擔(dān)任開發(fā)負責(zé)人的時間很長,深知其中的無用功。結(jié)果是我們拼命開發(fā)的都是些(發(fā)展性貧乏、通用性低下的)低級技術(shù),只是在浪費時間,沒有任何意義。這樣的過程反覆重複,更是讓人強烈地感受到真是在浪費時光。
第1000張也要顏色相同
——從手工開發(fā)向有組織開發(fā)轉(zhuǎn)變的想法來源於什麼契機?
契機是7~8年前的彩色影印機開發(fā)。我經(jīng)歷了拼命也無法實現(xiàn)的過程。不僅投產(chǎn)時間大幅延期,推出的商品也不令人滿意。
把印刷的彩色“圖案”放大後可以看到,圖案是由藍、黃、品紅(發(fā)紫的粉紅)、黑這4色的微小畫素組成的。根據(jù)每一個畫素大小和位置變化,表現(xiàn)出的色彩會完全不同。因為是為每一個顏色製版,上顏料,然後把4張版重疊,所以不以數(shù)十μm或數(shù)μm的精度進行控制的話,版就會偏位,出不來好的顏色。
說的極端點兒,即便是用傳統(tǒng)方式開發(fā)的產(chǎn)品,在某種控制的情況下使用時,也會表現(xiàn)出良好的性能。但是,高端機領(lǐng)域出現(xiàn)了以出售印刷品為業(yè)的客戶。比方說,他們要求在印刷第1000張時,黑和黑的程度必須相同、第1張和第1000張的紅色要色調(diào)一致。如果是在一般的辦公室使用,印刷量不會達到幾百份,第1張和第幾百張的色差則不是大問題。
那是我們面對的最痛苦的局面。當(dāng)時利用什麼技術(shù)都行不通。反而言之,也正是在這些高水準的要求中得到了鍛鍊。說起來有點不好意思,理光最近產(chǎn)品的精度和可靠性之所以有所提高,其中關(guān)鍵的一點就是因為滿足了高端機的需求。
現(xiàn)在理光的開發(fā)系統(tǒng)從一開始就選擇強大的核心技術(shù),在惡劣的環(huán)境下考驗開發(fā)品的性能。把對於溫度和外力等外部條件的變化具有高魯棒性的技術(shù)以及經(jīng)驗系統(tǒng)化變?yōu)橹R,並把這些知識融入模組(基礎(chǔ)部件單元)廣泛應(yīng)用於各種機型。過去我們採用的是重視培育產(chǎn)品的做法,而現(xiàn)在則完全相反,採用的是徹底錘鍊技術(shù)的做法。強大的技術(shù)才會滿足我們的期望。
簡歷
近藤史朗:1973年3月畢業(yè)于新潟大學(xué)工學(xué)部,同年4月進入理光公司。從“RIFAX 600S”(1974年4月上市)開始參與產(chǎn)品開發(fā)。曾擔(dān)任多種產(chǎn)品的開發(fā)負責(zé)人,1998年任圖像系統(tǒng)業(yè)務(wù)本部印表機業(yè)務(wù)部部長,1999年任圖像系統(tǒng)業(yè)務(wù)本部副業(yè)務(wù)本部長,2000年任執(zhí)行董事。2000年任圖像系統(tǒng)業(yè)務(wù)本部部長,2002年任高級執(zhí)行董事,2003年任常務(wù)董事,2004年任MFP業(yè)務(wù)本部部長,2005年任專務(wù)執(zhí)行董事,2007年4月就任董事長社長兼執(zhí)行董事。
舊來の手法では最先端の製品は開発できない
僕は今,設(shè)計開発のプロセス改革が一番大事だと考えています。最初の設(shè)計開発の部分が一番難しいといえば難しいし,そこで間違うとその後のプロセスをどんなに充実させても挽回できない。ですから,最初の設(shè)計開発部門の責(zé)任というのはとても大きい。その設(shè)計開発のプロセス改革で打ち出しているのが「造らずに創(chuàng)る」という方針です。実際はもっと激しい言い方をしていまして,試作品を造るなと?!冈囎鳐欹?,評価レス,検査レス」まで行こうじゃないかと言っています。
試作品を造って評価するといっても,今どきの複雑で高機能な製品は評価しきれるものではありません。むしろ試作品を造らない方がはるかに精度の高い評価ができるんですよ。例えばお客様が,通常とは極端に違う環(huán)境で製品を使う場合を評価できる。これがコンピュータの良いところです。理想を言えば,試作はしたくない,実機での評価もしたくない。設(shè)計開発から一発で量産を立ち上げたいと思っています?,F(xiàn)狀では,まだそこまでは行っていませんが。
開発體制もシステマチックなものに根本的に変えました。設(shè)計者というのは変な話ですが「體を使う」と,ものすごく仕事をした気になるんです。分かりますでしょうか,この言い方で。例えば,発売日に間に合わせるためにみんなで徹夜して頑張ったとか,會社の言うことに逆らってプロジェクトを進めたとかいうエピソードは,多くの會社にあると思います。そして,最終的にはプロジェクトが成功に終わる。これが體を使うという感覚です。しかし複寫機の場合,昔のような少人數(shù)のプロジェクトチームが徹夜して仕上げるようなやり方では,もう最新の製品は開発できません。
僕が現(xiàn)場の最前線で開発に取り組んでいた時は,本當(dāng)に少數(shù)の部隊で商品開発をやっていて,不眠不休でやるっていうのが當(dāng)たり前でした。新製品の開発なんだから,そうやるものだという思い込みもありました。しかし,今のリコーで一切そういうことは許さない。そうしたやり方は悪だと宣言しています。
昔風(fēng)の開発のやり方で最新の高度で複雑な製品を開発しようとすると,個人に限界を超える負擔(dān)を強いる場合が出てきます。その結(jié)果,個人に対して非常に過酷な影響が出る。しかも度々です。私も健康を害したことがあります。こうした環(huán)境は,どこの企業(yè)でも開発の最前線を歩いている人たちに共通かもしれません。僕は開発の責(zé)任者をしている期間がすごく長かったので,その恐ろしいほどのムダを身に染みて知っています。結(jié)局,(発展性が乏しかったり,汎用性が低かったりする)弱い技術(shù)を一生懸命育てようとすることになってしまい,手間がかかるだけで何の意味もありません。そういうことを何度も繰り返しやることに対して,本當(dāng)にムダだなあ,と強く思っているんです。
――手作りの開発からシステマチックな開発に変えようと思ったのには,何かきっかけがあったのですか。
7~8年前になりますが,カラー複寫機の開発がきっかけでした。力ずくではもうできないという経験をしたんですね。商品化の時期が非常に遅れた上,出した商品に満足できなかったってことです。
印刷されたカラーの「絵」を拡大してみると分かりますが,シアン(青),イエロー,マゼンタ(紫がかったピンク),ブラックの4色の,非常に細かい畫素で構(gòu)成されています。その畫素一つひとつの大きさをどうするか,どう配置するかで色合いは全然違ってきます。1色ごとに電気的に版を造ってそこにトナーを付けて版を4枚重ねていくわけですから,數(shù)十μm,あるいは數(shù)μmのオーダーでコントロールしないと,版がずれて良い色にはなりません。
極端に言うと,従來のやり方で開発した製品でも,あるコントロールされた狀況で使われているときには良い性能が出ます。ところがハイエンド機では,プリントしたものを売るというビジネスをするお客様が出てきました。例えば,1000枚プリントしたときに黒の黒さ加減が同じじゃなきゃいけない,赤の色調(diào)が1枚目と1000枚目で違ってもらっちゃ困るという要求になるわけです。一般のオフィスでの利用だったら何百部とはプリントしないから,1枚目と何百枚目との色の違いは,さほど問題ではなかったんですね。
それが我々の一番苦しい局面でした。當(dāng)時の技術(shù)がなかなか立ち行かない部分があったんですね。逆に言うと,そういうレベルの高い要求によって鍛えられてきたっていうことも事実です。お恥ずかしい話ですが,最近の製品の精度や信頼性が上がっているのは,ハイエンド機のニーズへの対応がポイントだったわけです。
早い段階から,強い要素技術(shù)を選んで苛烈な作り込みをする,というのが現(xiàn)在のリコーの開発システムです。ロバスト性の高い(溫度や加わる力など外部條件の変化に対して安定性が高い)技術(shù)に関する知識やノウハウを體系化してナレッジとし,そのナレッジを盛り込んだモジュール(基幹部品ユニット)を,さまざまな機種に汎用的に使っていく。昔は製品を大事に育てていこうというやり方だったのですけれど,今は技術(shù)を徹底的に鍛えるという,全く逆のやり方です。強い技術(shù)はそれに期待通り応えてくれます。
プロフィール
近藤 史朗(こんどう?しろう) 1973年3月新潟大學(xué)工學(xué)部を卒業(yè),同年4月リコー入社?!弗辚榨ˉ?/span>600S」(1974年4月発売)を最初として製品開発に攜わる。さまざまな製品の開発責(zé)任者を務(wù)め,1998年畫像システム事業(yè)本部プリンタ事業(yè)部長,1999年畫像システム事業(yè)本部副事業(yè)本部長,2000年執(zhí)行役員に就任。2000年畫像システム事業(yè)本部長,2002年上席執(zhí)行役員,2003年常務(wù)取締役,2004年MFP事業(yè)本部長,2005年取締役専務(wù)執(zhí)行役員を歴任し,2007年4月代表取締役社長執(zhí)行役員に就任。
恩梯恩會長鈴木泰信:凡事都100%成功,反倒沒意思
大約在7~8年前,公司裏的年輕人產(chǎn)生了開發(fā)“動壓軸承”的新想法。公司內(nèi)部雖然也有反對,但開發(fā)還是堅持了下來。令人欣喜的是,它最終成為了日本電產(chǎn)的硬碟馬達中所使用的軸承。
硬碟馬達與硬碟本身相同,商品週期非常短。電子產(chǎn)品半年期間就會就會發(fā)生巨變。用傳統(tǒng)的開發(fā)速度很難跟上。出於這一原因,公司內(nèi)部出現(xiàn)了各種恐慌:“真能賺錢嗎”、“我們真的能行嗎”。
不過,這也是個好機會。它促進我們提高了開發(fā)速度。既然客戶能以這樣的速度前進,那我們就必須緊隨其後。值得慶倖的是,我們沒有被甩下。
目前,“動壓軸承”的產(chǎn)量已經(jīng)達到了月產(chǎn)1000萬個以上。這都是年輕人的功勞,現(xiàn)在想想看,一切都是從“失敗也不是一件壞事”開始的。公司當(dāng)時雖然不寬裕,但是,對於經(jīng)營者來說,給年輕人挑戰(zhàn)的機會非常重要。即便就算失敗了,公司也不會因此垮掉。我們鼓勵年輕人進行各種嘗試。在開發(fā)中出現(xiàn)失敗是理所當(dāng)然的。100%成功反倒沒有意思了。
老手與年輕人組隊
我們在公司內(nèi)部製造生產(chǎn)設(shè)備。我個人身高比較矮,所以提出的要求是製造出一挺起胸膛就能看到對面的設(shè)備,或是寬度在兩臂張開之內(nèi)的小型設(shè)備。設(shè)備越大,消耗的能源越多。這和人是一樣的,身體越胖消耗的能量也就越多。
現(xiàn)在,在我們的磐田工廠,使用的設(shè)備只有原來的一半大。我喜歡一半,縮小10%只要耍耍小聰明就能辦到,30%雖然需要相當(dāng)?shù)呐?,但也並非不可能。如果是一半,例如把重量減輕一半,那麼尺寸也要減半。不徹底改變傳統(tǒng)的思維方式是無法實現(xiàn)的。
——不受先例束縛的創(chuàng)意都是怎樣產(chǎn)生的?
我們的方式是選擇一個時間,把35歲以下的人員分成3組,在各組成員之間開展競賽。讓他們提出設(shè)備創(chuàng)意,選擇最好的一個。年輕人無所畏懼,所以不會受過去的經(jīng)驗束縛。因此,一般來說,他們能夠提出老員工絕對想不到的創(chuàng)意。
在之後的階段中,我們再讓老員工參與。我說的老員工是老手的意思,也就是設(shè)備製造經(jīng)驗豐富的人。這些人與年輕人合作可以創(chuàng)造出新概念的設(shè)備。這一點很有意思。這樣做的話,設(shè)備的佔地面積真的能縮小一半。如果之前利用一定的面積可以1個月生產(chǎn)10萬臺設(shè)備,那麼現(xiàn)在利用相同面積就能生產(chǎn)20萬臺。
我們于4年前在三重縣創(chuàng)建了新工廠(NTN三重製作所)。這是一個了不起的舉措?,F(xiàn)在,該廠員工的平均年齡為26~27歲,參加工作2年左右的員工約有400人。不少人是先在大城市就業(yè),然後又回到三重的。優(yōu)秀人才很多。這些人通過參加國家測試,先後獲得了技師資格。吸收知識和技能的速度也非常驚人。都說現(xiàn)在的年輕人崇尚個人主義,其實並非如此。只要開闢交流的場所,他們的團隊力量還是很大的。
在研究開發(fā)中我也對年輕人充滿了期望。如果沿用以往的研究開發(fā)方式,當(dāng)年輕人提出創(chuàng)新技術(shù)時,上司根據(jù)自己過去的經(jīng)驗,有時會不予採納。這樣不好。研發(fā)機構(gòu)本來必須是平面的。但公司卻大多為金字塔式的組織結(jié)構(gòu)。這樣的話,自下而上的提案就會在途中止步。因此,我認為應(yīng)該使組織平面化,對於有趣的提案提供預(yù)算,給出1年或是2年的時間讓他們?nèi)L試。
嘗試當(dāng)然不可能全部成功。不過,只要上司能夠及時發(fā)現(xiàn)有前途的新創(chuàng)意,創(chuàng)建項目組,將其帶到一定高度。然後在這一階段分辨其是否能夠成為商品,最後一氣呵成就可以了。
最近都在說回歸日本,不光是製造部門的回歸,在生產(chǎn)技術(shù)能力和產(chǎn)品技術(shù)能力上,日本的年輕人也具有潛力。經(jīng)營者怎樣才能激發(fā)這些潛力,給年輕人挑戰(zhàn)的機會,這將是決定實力強弱的關(guān)鍵。
簡歷
鈴木泰信:1959年4月進入恩梯恩。1979年7月任加拿大恩梯恩製造董事社長,1983年3月任德國恩梯恩製造董事社長,1987年12月任恩梯恩生產(chǎn)本部副本部長,1991年6月任該公司董事,1993年4月任該公司桑名製作所長,1995年6月任該公司磐田製作所所長,1999年6月任董事長副社長。2001年11月就任董事長社長,2007年6月就任董事長會長。2005年5月榮獲藍色綬帶獎?wù)隆?span lang=EN-US>
島津製作所社長服部重彥:與美國公司總裁激烈辯論“製造的附加價值”
說得好聽一點,島津製作所是研發(fā)型企業(yè)。我們是為研究人員和醫(yī)生獲得新的發(fā)現(xiàn)、發(fā)明,以及醫(yī)生開業(yè)提供支援的設(shè)備廠商。這一點與普通企業(yè)不同。為了讓研究人員和醫(yī)生能夠更好的工作,我們必須盡職盡力。從貼近研究人員的意義上來說,我們應(yīng)該說是一家研發(fā)型企業(yè)。
在美國發(fā)現(xiàn)“製造本身就是附加價值”
其實在此之前,由於把公司定位於研發(fā)型企業(yè)所以對製造有些怠慢。因為本公司是多品種少量生產(chǎn),商品的種類甚至達數(shù)千。其中也有製造1個需要1個月或2個月的商品。出於這些商品的特點,與製造相比,公司自然地就變成以研究開發(fā)為中心的了。
我本來是繪製色譜儀圖紙的技術(shù)人員,對開發(fā)與製造的關(guān)係一直在進行思考。我覺得,有製造研究開發(fā)才能生存下去,製造是企業(yè)存在的根本和附加價值,也是利潤的源泉。因此,應(yīng)該在保持研究開發(fā)特色的基礎(chǔ)上下定決心,徹底地著手全部的製造業(yè)務(wù)。只要與時共進,利潤應(yīng)該有大幅增加的空間。
——對製造和工廠進行強化的契機何在?
我們的商品基本都是多品種少量生產(chǎn),因此按照一般的看法,很難做到產(chǎn)品的準時化。但我們想對此進行挑戰(zhàn)。
契機之一是我20年前在美國時的經(jīng)歷。在各大分析儀器企業(yè)總裁雲(yún)集的餐會上,有人跟我說:“服部先生,請指教一下準時化和業(yè)務(wù)改善。這在日本很普及吧”。當(dāng)時,日本的製造業(yè)被譽為最強,“改善”和“系列”的片假名拼寫,直接音譯成了英語。當(dāng)然,當(dāng)時的島津製作所沒有進行改善,也沒有準時化。那時我才猛然醒悟:“哎呀,我們在製造方面有點落後了”。海外公司已經(jīng)明白必須強化製造。在20年前海外就開始向日本學(xué)習(xí)業(yè)務(wù)改善了。
這一想法終於在2年半之前開始變?yōu)閺娀u造的行動。開始後便發(fā)現(xiàn),無論是準時化還是改善,都成為一點一滴累積附加價值的機制。最先想到這一點的人真是了不起?,F(xiàn)在,我們還在努力的途中。雖然還沒有完成目標,但我們已經(jīng)有了信心:多品種少量生產(chǎn)也能夠?qū)崿F(xiàn)業(yè)務(wù)改善和準時化。
——美國對業(yè)務(wù)改善關(guān)注度很高,但另一方面,無廠生產(chǎn)也是從美國起源的。
20年前幾乎還沒有無廠生產(chǎn)的概念。不過,剛才在美國發(fā)生的故事還有後話。2006年5月,當(dāng)我前往美國與美國分析儀器公司的總裁們會談時,我們對製造業(yè)務(wù)應(yīng)有的狀態(tài)產(chǎn)生了分歧。其中一位總裁很肯定地說:產(chǎn)品製造沒有附加價值。該公司包括設(shè)計、製造在內(nèi),把價格高達500萬日元左右的液相色譜儀全部委託給了外部公司。而且是海外公司。甚至連圖紙也不繪製。他們的想法是:製造是徒勞的,所以自己不做。
我對此進行了強烈反擊:“這不是太奇怪了嗎?製造不應(yīng)該是附加價值的源泉嗎?”雙方各持己見,引發(fā)了激烈辯論。我們當(dāng)時正在全面強化製造業(yè)務(wù),因此對製造否定派,大有“今後走著瞧”的氣魄。
不過,這位總裁的公司也許只是個極端範(fàn)例。在美國,認為豐田生產(chǎn)方式了不起的見解現(xiàn)在也還常常能夠聽到。
——強化製造和工廠,獲得了怎樣的成果?
採取這一措施的出發(fā)點是提高品質(zhì),而不是降低成本。因為我們的商品是在最尖端的研究開發(fā)中使用,所以經(jīng)常使用未得到工業(yè)普及的最新技術(shù)。因此有時會因為小原因?qū)е路€(wěn)定性降低、出現(xiàn)故障等現(xiàn)象。因此,提高品質(zhì)直接關(guān)係到提高產(chǎn)品價值。
其次是交付期。說起來好笑,研發(fā)儀器的交付期非常鬆散。有時候電話通知客戶下週五送過去500萬日元的裝置,等到週五卻又說“對不起。改到下週日了”。這會給客戶造成困擾,因此交付期必須嚴格遵守。然後,第三個才是成本。
在某種意義上,另一個非常重要的成果是通過強化製造業(yè)務(wù)的獲得了改變企業(yè)文化的動力。對殘留在研發(fā)型企業(yè)特有的鬆散作風(fēng)進行改革,但人的思想很難一下子改變。
島津製作所原本是從製造佛像起家,進而發(fā)展到製造一臺臺昂貴的設(shè)備的,這些都是員工在你一言我一語的爭論中製造出來的。我們希望改變這種製造方式。讓新工廠成為獨立的子公司的理由也在於此。雖然並不是說本公司的人員懶惰,但我們希望集合具有不同企業(yè)文化的人組成新的組織,首先使工廠步入正規(guī)。讓員工的舊觀點從中得到改變。
也有人認為子公司化是為了降低人工費,但我們其實並沒有考慮那麼瑣碎的問題。因為本公司的業(yè)務(wù)不依靠1小時20日元、30日元的人工費差額。
簡歷服部重彥:1964年4月進入島津製作所,在測量儀器業(yè)務(wù)部從事氣相色譜儀的開發(fā)。1989年1月任美國SSI總裁(駐美),1993年6月任董事(SSI總裁),1995年6月歸國(董事兼試驗計測業(yè)務(wù)部部長),1997年6月任常務(wù)董事,2003年6月就任董事長社長。2007年4月榮獲藍色綬帶獎?wù)隆?strong style="mso-bidi-font-weight: normal">